昭和48年03月20日 春季総会
信心には、その信心の過程とか段階とかというものは、おうていくもの。だんだん一段一段進んでいくんですから、必ずしも誰のまねをせねばならんと言うことはないですけれど、現在のお互いの信心でしっかり、まぁわけは分かっても、分からんでも、一つあの五つの願いを本気でさせて頂いて、又五つの願いというて、願いが、あの五つの願いだけじゃありません。
ほりゃもうありとあらゆる、痛いなら痛い。痒いなら痒いの願いを、させてもらわなければなりませんけれども。どうしてもその生き生きとした心で願わなければならないという事ですね、同時に又その事を通して、なら今よりも少しはましな信心をさせて下さいという願いも、これも忘れてはなりません。この信心が、十年も二十年も続いておると言った様な事では、おかげが華々しいものになってまいりません。
そりゃ金光様の信心をしておりますればね、どういう例えば、ふしだらな生活をしておっても、金光様というておりゃ、何とはなしにおかげは頂くもんです。けれどもね、私はどうでも、皆さんが色々お話をなさいますように、その折角信心を頂くのでございますから、本当にあの信心者としての信心生活が出来る。そして、なるほど恐れ入ってしまうというほどしのおかげの世界に住まわせて頂かなければいけん。
昨日の朝のご理解の中にも、御神訓の、「疑いをはなれて真の大道を開き見よ、わが身は神徳の中に生かされてある」という御神訓に基づいてでしたけれども、その疑いをはなれてとこう仰るが、その疑おうとしても疑う余地が無いというほどしの神様をまず頂かなければならないという事なんです。疑おうと思うても、疑う余地が無いというほどしの、私は水をもらさんほどの、いうならばおかげというかね、そういうおかげの中に浸らせて頂いて、初めてわが身は神徳の中に生かされてあると。
本当に今日お生かしのおかげを頂いておるということだけでも、一切の問題が解消する、解決するというほどしのね、いわゆる信心生活が出来るんです。だから、目指すところはね、そこでなかにゃ、一足飛びということではありません。だからその時点時点での言うなら幼稚な願いでもかまいません。だからその願いをするなら本当に一生懸命に一心の信心を持って願わせてもらわなきゃいけない。
そして、なら今の信心でよいか、何時まででも良いかというのじゃないのですから、今の信心よりも、少しはましな信心を、その願っておることを通してです、分からせて下さいという願いも必ずせなければいけません。先ほど、久富総代さんが、お話をしておられたように、さらなものと言う事。だからその、さらなものというのは、ある限り必ず信心は伸びて行くです。生き生きとして。
例えば五時の御祈念にお参りをする時には、五時のいわば五時前十分でも十五分でも、前に、例えばお参りをするというておられる。ここにとめて頂く時には、親先生のお出ましを拝むという事にしておると。そして、それも少しは早めにでらせて頂く、その少しはということろがですね、私は生き生きとしたもののように思いますね。五時の御祈念に、例えばですよ、こりゃまぁ例えばです。もう五時十分に来たんではね、生き生きとしたものは生まれて来ません。
もうそれこそ、もう一生懸命走り込んで間に合うて良かったというよりもです、十分なら十分それ前にはじっと神前に、御祈念の時間を待たせて頂くというあそこがね、私は人とは変わった生き生きとしたものが生まれてくる原動力になるものだと思うんです。それはそれぞれ工夫しなきゃいけません。さらなものが頂けることの為に、やはり修行もしなければいけません。例えば草花が水揚げが悪くなったら、根元を焼いたり叩いたりすると言った様な所から、又新たな水を吸い上げるようなもんです。
昨日でしたか、あの久富勇さんの奥さんが、いや、久富勇さんが頂いておられるのにですね、あんた今朝のご理解をそのまま頂いておるですね、ていうてから、話したことでございましたけれども、私がご神前からお花のお榊の水、あの花立を出して、勇さんこれは花の水を替えなさいというて、渡したところを頂いたと。お榊というものは、あれは毎朝変えますと、持ちも良いですけれどね、けどもあれが、あの二日も三日も変えないと、直ぐ枯れてしまうでしょう。いわゆるさらなとはそれなんです。
それから次には鉄板の上で蛇を、真っ黒こげに焼いておる所を頂いた。生では頂きにくいから、これを炭の上に粉にしてから頂けといわれて、それを鉄板の上で焼いているというその、お知らせであったとこういうんです。勿論蛇と言う事は、まぁめぐりと言う事でしょうけれどもです、めぐり、めぐりを放すという生き方じゃなくて、めぐりを頂くという生き方なんですがね。私は今日本当ここに座らせて頂いてしきりに今日は、もうそれこそ何十年前にあの、昔に聞いた話しをしきりに思い出すんですよ。
それがね、まぁこんな話しを子供の時に聞いた事があるんです。賽の河原のお話しなんです。賽の河原というところは、いわゆる子供達のいわゆるいきば。子供達が生長する、生長するまであの賽の河原に置かれて、お地蔵様のお守りを受けながら、あそこで一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のためのと、その石積みの供養をすると言う事です。ところが明くる朝起きてみると、またその赤鬼、青鬼がやってきて、全部それを壊してしまう。来る日も来る日も同じことを繰り返しておるというのです。
そこで、ある時その子供達がその集会を開いた。そして、こりゃもうこんなに毎日毎日同じことを繰り返しとっても馬鹿らしいと。だから何とかその鬼を退治する方法はないかというて、まぁ鬼退治の話し合いをしたけれども、とてもこの賽の河原におる子供達が全部でかかっても、あの鬼には勝てそうにもないというので、なら地蔵様にお相談をしてみろうじゃないかと。言う様な話しになった。
そこでお地蔵様にご相談を申し上げると、お地蔵様が、そのお前達がね、石を積むから鬼がやってくるんじゃ。石をこづむから壊されるのだ。だからそう言う事を止めてね、一つもうなにもせんで、一つ石積みを止めたらどうかと。そして私のようにちゃんとこうやって、その毎日たっとったらいい。だから私の横へ来て、ずらっと並んでから、明日からもう石積みやらするな。とまぁお地蔵様が教えられた。そういう素晴らしい手があった。そういう何にもせんですむ、もう馬鹿らしいこともない。
それなら鬼もこんじゃろうというので、明くる日からおじ地蔵さんの横に並んでからずらーっとならんどったち子供たち。なるほど鬼はこなくなった。二日目もこん、三日目も来ない。一週間もしたところが、そのお地蔵さんの真似をして、ちゃんと立っておった子供達が、少しは今度は立っておると言う事に、だれて来たわけです。そしてこれをやっぱり壊されてもね、壊されても、やっぱり石積みはしたほうがよいぞ、と言う事に気が付いたというのです。
だからお地蔵さんはもう、もうそう言う事が気付かせて頂いたのならね、いつまでも子供でおることはいらん。いわゆる極楽浄土にこれから行ってもよいと言われたという、ようなお話しじゃった。それをしきりに今日思い出すんですよ、私今日は。もう全然忘れておったです。たら今日皆さんのそんなお話しを聞きながらね、そういうお話しを聞きながらね、お互いがその石積みをさせて頂きながらね。
いつまでこんな苦労が続くだろうかと、何とかこの苦労から、抜け出す方法はなかろうかと言う事だけが、願いの焦点であるというならばです、それはそんなら一つ、一応願わんでよかごとじっとしとってみりゃよかたいと言う事にもなるのかもしれません。まぁそういう、まぁおぼんさんのお説教の、お話しの中から、婆が聞いてきて、まぁ私に話してくれたお話しなんです。それをもう、こうすっころっと忘れてしもうとった。ところが今日その事をしきりに思い出すんです。
ね、私達の信心させて頂きますから、必ずしも結構けだらけの事ばかりが続くのじゃありません。もうそれこそ、つんでは崩され、積んでは又、壊されと言う様な事でございましょうけれどもです、そのこ積みぶりが段々良くなってくる。それを本当の、例えば御用として、それが出来るようになって来る。そしてそこんところをです、私共が卒業をさせて頂いたら、本当の意味で、での、まぁ大人としての取り扱いと言った様な事が、して頂けるのではないかという風に思います。
信心をさせて頂いて、秋永先生のお話しを頂いておってもね、なら二十何年の信心のうちに段々、何時も、まぁあぁして生き生きとした神様を身近に頂いておられる体験を聞くんですけれども、先生の話しを聞きよるともう今日の神様が一番、自分に身近といったような風に聞こえるですね。なんかもう過去のものはもう大変薄いもののように、こう話されますけれども、その時点時点で確かに、なら昔二十年前に先生が話しておった話も、なるほど私共に生き生きとして、その信心の有り難さというものを伝えて下さり、私共もまたそう感じておった。
だからそういう例えば、おかげを頂いて行くということがですね、私は信心生活ではないかとこう思うです。決して積んだものが段々積み上げられて行くと言う事だけがおかげではない。積んだものが壊される。その壊されると言う事も、又おかげであると言う事です。いうならばお地蔵様も有り難いなら、又その赤鬼青鬼もまた有り難いんだと言う事が分からせてもらう。めぐりも、ただ放そう、めぐりから抜け出ししようと言う事だけでは、おかげになりません。
そのめぐりも頂いて見てです、まだ今真っ暗にその蛇の黒焼きというですかね。黒焼きが出来とるところですけれどもね( ? )をしてから、こう頂いてみてちからが出来た時にです初めてです、その廻りも又有難かった。そのめぐりのおかげで、この様な力が出来たと言う事になるのじゃないでしょうか。私共が一つなら「大和心」と言う事をこの頃言われますが、その大和心と言う事は全ての事にお礼を言う心だとね、全ての事にお礼が言えれる心というものをです、私共が確認して行くという生活。
だから「疑いを放れて真の大道を開き見よ、わが身は神徳の中に生かされてあり」と、話しを聞かせて頂けばなるほど、神様の御神徳に生かされてあることは頭では分かるけれども、なら実感としては、頂けないのはです、疑う、を、疑いを放れてと仰るが、疑う余地の無いほどに、日々です、例えば倒れ転びしながらもです、神様の働きといわなければおられないという、おかげの実感の中にです。
私共日々信心の稽古をさせて頂いて行くうちに、わが身は神徳の中に生かされてあり、一切が神愛でありとして、お礼の言えれる信心、その境地が開けて来るのです。お地蔵様も有り難いならまた赤鬼青鬼も、実は有り難いのだというそれはね、頭で分かるのではなくてです、心から分からせて頂くということが、私共の一つのまぁ大学ね、大学を最高とするなら、を卒業と言う事になるじゃないか。
その卒業のし具合によってです、就職の、良い就職が頂けれるようなおかげ。もうここまでのところが分かったら、後は大人の世界に行っても良いぞと言う様なです、大人の世界に入っていけれる信心を頂きたいもんだと思います。御大祭を前にして一ヶ月間。お互いが、何とか繁雄さんの話しじゃないけれども、工夫をさせてもらう。五時の御祈念ならせめて十分なりとも、十五分なりとも、まぁそれで出来ない人は、ならせめて、御祈念にだけは間に合うようにと、心掛ける。
それにも間に合わないなら、せめてご理解だけになっとん間に合う。何とかそこに工夫をさせて頂いて、そこに少しゆとりというか、余裕をつくらせて頂けれる、信心をね、させてもらう。そういうところが生き生きとしてくる。さらな事になってくる。そのさらな心が神様へ通うという感じがいたします。もう信心には、もうとにかく後者であるとか、いうなら幼稚園も小学校もない、おかげを頂いていくという上においては同じ。それは生き生きとした、しかし心がなからなければならない。
御大祭前に、何とはなしに只今申しますような、生き生きとした、さらな心を頂いて、それこそ大祭を頂点としてです、有り難い、生き生きとしたお礼の申し上げれる、とにかく今朝から私がこの御祈念、総会の御祈念をさせて頂く時に頂きますように、今合楽では、もう、まぁ皆さんの場合で、もうたいてい大体、今はこの総会なんかにはまだ見えないという、まだこんなことはいかんなんもんとも知らないと言った様な新しいご信者さん方が非常に熱心です。
いわゆる何とはなしに生き生きとした信心をして、おかげを受けております。だから皆さんが、今日はお姉さんであり、お兄さんであるという風に頂かなきゃならんだろうと思う。そのお兄さん、お姉さんの信心が眠っておるというわけなんです。私が今日頂くのはね、【黒板に書かれている】こう「兄」という字を頂いた。で後からこれを頂くんですよね、そすとこれは祝いという字になりますね。祝いと言う事は、あご大祭お目出度うございますという意味なんです。
ですから私共と神様とが、お目出度うございますを言い合える、それがあのご大祭なんですね、ですあら兄が私流に頂いたんです。兄が寝とるちいう頂いたもんね、ネて書いちゃるけん(笑い)兄が寝とる、ははぁこれは兄が親方どんが眠っとるね、却って弟とか妹どんの方が、もうお兄ちゃんおきんらんかち、こうこういよるばってんか、もうぐうぐうして寝とると言う様な感じなんです。ですからですいうならばその兄も弟も親も子も一緒に目を覚まして、そして大祭へ向かっての盛り上がりをつくって行く。
そこに神様おめでとうございますと、言えれる信心が頂けれる。そういう生き生きとしたご大祭。もうご大祭という、形においては同じですからね。もうまた、そうバタバタせんでも、合楽の場合は出来るわけなんです。けれどもね、それでは一つも進歩がない。ご大祭を境に、例えば私、あのここの、記念祭の十二月の二十日のご大祭を境にです、もう本当に境におかげを受けてきたという事は事実です。
先ほど、あの正義先生が説明しておりましたように、こんなに払われないはずのつが、それ以上に払われるほどしのね、とてもとてもあの難しい、とても難しいと思うておった事がです、このぐらいなら楽にこりゃ払えるぞ、と言った様な具合なおかげを頂いておるという事は、合楽全体の御比礼の上に、変わってきたものが出来、あるからだと私は思うのですよ。だからお大祭を境に、私共のなら家庭の上にもで。
ころっと変わってくるようなものがね、頂ける意味においてもひとつ生き生きとした、有り難い心で、しかも家族勢をそろえて、兄も弟も、親も子もね、共々に生き生きと有り難い、生き生きと神様おめでとうございます、とごあいさつの申し上げられるような信心を、頂きたい。そこに今から一月、何とかしてという工夫がなされなければならんのじゃないでしょうか。どうぞそういう工夫を一つ本気でして頂きたいと思います。
よろしくお願い致します。